中村橋
練馬区立美術館では2007年に95歳で亡くなった高山辰雄の遺作展が
開かれています。


練馬区立美術館は西武池袋線中村橋駅のすぐ横にあります。

美術館入口です。

前期は10月5日まで、後期は10月11日から11月3日までです。
約100点が出品されますが、7割は前期と後期で展示替えされます。
土曜日の午後2時からは学芸員による作品解説もあります。
1936年の「砂丘」(前期のみ)は東京美術学校の日本画科の卒業制作で、
砂丘にすわるセーラー服姿の女性を描いています。
後の高山辰雄夫人で、この頃は女子美術専門学校の生徒だったとのことです。
若々しい力作ですが、後の画風とはかなり違って、色も形もくっきりと描いています。
ただ、人物の顔が正面からこちらを見ているのは後の作品と同じです。
その、すっきりとした描線の顔には昭和モダンの雰囲気があります。
1940年頃の「春光」は寝そべっている大型の洋犬を描いていますが、体の輪郭を
なめらかな線で一気に描き切り、長い毛のふわふわした感触まで表しています。
竹内栖鳳の作品かと思うほど巧みで、伝統の日本画の技法を若い頃からしっかり
身につけていたことが分かります。
ところが、本人はこの作品を外に出したがらなかったそうです。
その後の高山辰雄が目指した絵の方向と違うためだったようです。
新しい絵の模索は、先輩の山本丘人に「お前の描いた鉄は叩くと鉄の音がするなあ」
と言われたのがきっかけだといいます。
在る物を在る通りに描いているだけではいけない、ということです。
普通の人は在る通りに描くだけで終わってしまいますが、高山辰雄は始めから
描くのがきわめて上手い人だったので、より高いものを探求することになった訳です。
やがて、自然、時間、人間の生というものをテーマとする絵を描き始めます。
1973年の「朝」「夕」は巨大な屏風絵ですが、抽象的で、寂しげな風景の中に立つ
人物を描いています。
得意の筈の線描は使わず、筆遣いや色数を抑えた絵は、いかにも意気込んで
描いたといった風があります。
ただ、目に見えない抽象的なものを絵画で表そうとすると、理屈っぽい、観念的な
絵になりがちで、難しいところです。
やがて、高山辰雄は点描を始めています。
この、緻密で練り込むような点描によって、奥深く神秘的な画面が生まれます。
1979年の「少女」では薄暗い背景の前に黄色い服の少女が横向きに立って、
こちらを向いています。
はだしの少女は棒のように立ち、肩の辺りに置いた左手は大きく、髪は伸びたままに
盛り上がり、真っ直ぐこちらを見た顔は謎めいた微笑を浮かべています。
不思議な雰囲気のただよう、印象深い作品です。
「少女」は、1949年に自分の娘さんを描いた作品と構図は同じですが、二つの作品を
見比べてみると、高山辰雄の作風の変化がよく分かります。
高山辰雄は人物画を多く描きますが、どの人物も静かに物思いに沈んでいるようで、
神秘的で気高さを感じます。
ジョットのようなイタリア宗教画にも似ています。
1985年の「地」はイヌタデの一株を描いています。
イヌタデという、地味で小さな雑草を高さ2メートルの画面いっぱいに描いて、
その生命の持つ力を伝えています。
下の方が葉が枯れかけていて、時間の流れ、生命の移ろいまで読み取れます。
1988〜1989年の「牡丹」シリーズは活けられた数輪の牡丹を描いています。
高山辰雄は装飾的な絵も上手いのですが、一見地味な色使いの点描で、
牡丹の華麗さを存分に表しています。
最晩年に近い2004年の「牡丹 洛陽の朝」になると、朦朧と立ち上がる牡丹は
背景の中に半ば溶け込み、凄みさえ感じさせます。
「砂丘」から始まった画家はついにここまで来たのかと、感慨深いものがあります。
これが、画家の生涯にわたる画業を観ることのできる回顧展の面白さです。
他にも風景画や人物画など、興味深い作品が多く展示されていて、
とても見応えのある展覧会です。
chariot
練馬区立美術館では2007年に95歳で亡くなった高山辰雄の遺作展が
開かれています。


練馬区立美術館は西武池袋線中村橋駅のすぐ横にあります。

美術館入口です。

前期は10月5日まで、後期は10月11日から11月3日までです。
約100点が出品されますが、7割は前期と後期で展示替えされます。
土曜日の午後2時からは学芸員による作品解説もあります。
1936年の「砂丘」(前期のみ)は東京美術学校の日本画科の卒業制作で、
砂丘にすわるセーラー服姿の女性を描いています。
後の高山辰雄夫人で、この頃は女子美術専門学校の生徒だったとのことです。
若々しい力作ですが、後の画風とはかなり違って、色も形もくっきりと描いています。
ただ、人物の顔が正面からこちらを見ているのは後の作品と同じです。
その、すっきりとした描線の顔には昭和モダンの雰囲気があります。
1940年頃の「春光」は寝そべっている大型の洋犬を描いていますが、体の輪郭を
なめらかな線で一気に描き切り、長い毛のふわふわした感触まで表しています。
竹内栖鳳の作品かと思うほど巧みで、伝統の日本画の技法を若い頃からしっかり
身につけていたことが分かります。
ところが、本人はこの作品を外に出したがらなかったそうです。
その後の高山辰雄が目指した絵の方向と違うためだったようです。
新しい絵の模索は、先輩の山本丘人に「お前の描いた鉄は叩くと鉄の音がするなあ」
と言われたのがきっかけだといいます。
在る物を在る通りに描いているだけではいけない、ということです。
普通の人は在る通りに描くだけで終わってしまいますが、高山辰雄は始めから
描くのがきわめて上手い人だったので、より高いものを探求することになった訳です。
やがて、自然、時間、人間の生というものをテーマとする絵を描き始めます。
1973年の「朝」「夕」は巨大な屏風絵ですが、抽象的で、寂しげな風景の中に立つ
人物を描いています。
得意の筈の線描は使わず、筆遣いや色数を抑えた絵は、いかにも意気込んで
描いたといった風があります。
ただ、目に見えない抽象的なものを絵画で表そうとすると、理屈っぽい、観念的な
絵になりがちで、難しいところです。
やがて、高山辰雄は点描を始めています。
この、緻密で練り込むような点描によって、奥深く神秘的な画面が生まれます。
1979年の「少女」では薄暗い背景の前に黄色い服の少女が横向きに立って、
こちらを向いています。
はだしの少女は棒のように立ち、肩の辺りに置いた左手は大きく、髪は伸びたままに
盛り上がり、真っ直ぐこちらを見た顔は謎めいた微笑を浮かべています。
不思議な雰囲気のただよう、印象深い作品です。
「少女」は、1949年に自分の娘さんを描いた作品と構図は同じですが、二つの作品を
見比べてみると、高山辰雄の作風の変化がよく分かります。
高山辰雄は人物画を多く描きますが、どの人物も静かに物思いに沈んでいるようで、
神秘的で気高さを感じます。
ジョットのようなイタリア宗教画にも似ています。
1985年の「地」はイヌタデの一株を描いています。
イヌタデという、地味で小さな雑草を高さ2メートルの画面いっぱいに描いて、
その生命の持つ力を伝えています。
下の方が葉が枯れかけていて、時間の流れ、生命の移ろいまで読み取れます。
1988〜1989年の「牡丹」シリーズは活けられた数輪の牡丹を描いています。
高山辰雄は装飾的な絵も上手いのですが、一見地味な色使いの点描で、
牡丹の華麗さを存分に表しています。
最晩年に近い2004年の「牡丹 洛陽の朝」になると、朦朧と立ち上がる牡丹は
背景の中に半ば溶け込み、凄みさえ感じさせます。
「砂丘」から始まった画家はついにここまで来たのかと、感慨深いものがあります。
これが、画家の生涯にわたる画業を観ることのできる回顧展の面白さです。
他にも風景画や人物画など、興味深い作品が多く展示されていて、
とても見応えのある展覧会です。
半蔵門・九段下
近代日本画の名品を数多く集めている山種美術館では「百寿を超えて」という題で、
奥村土牛、小倉遊亀、片岡球子の三人展を11月3日(月・祝)まで開いています。
みな、百歳を超えても創作活動を続けた近代日本画家です。
片岡球子(1905〜2008、103歳没)は6点出品されています。
片岡球子は力強い大胆な描き振りによる富士山や「面構(つらがまえ)」
シリーズで有名です。
毎年秋に東京都美術館で開かれる院展では、その作品は遠くからでも、
すぐそれと分かりました。
歴史上の人物を大画面いっぱいに太い線と強烈な色彩で自由に描き切っていて、
会場でもひときわ目立っていました。
富士山の絵も、色を惜しげもなく使って、ぐいぐい描くといった風で、見ていて
楽しくなります。
経歴によれば、若いころの片岡球子は院展になかなか入選できず、
一時は「落選の神様」とあだ名を付けられたそうです。
その頃の作品を見たことがないので、どんな作風だったのかよく分かりませんが、
自分がどんな絵を描くべきか模索していたのかもしれません。
また、自分の画風が出来てくると、これだけ個性があるだけに、理解されるのに
時間が掛かったようです。
日本画は伝統の上に立っているので、まったく新しいことを始めると
風当たりも強いでしょう。
富士山のシリーズを見ていると、その柄の大きさ、大胆さに感心しますが、
これは日本画なのか、油絵で描いてもいいのではないか、という気もします。
「面構」シリーズは1966年の「足利尊氏、義満、義政」から始まっています。
足利尊氏を最初に選んだのは、京都等持院に置かれている木像の顔に
惹かれたからだということです。
木像から想像すると、足利尊氏は垂れ目で鼻が大きく、愛嬌のある顔だったようで、
「面構」にもその特徴がよく表れています。
「面構」の最初に、足利尊氏を選ぶという目の付け所が面白いと思います。
「面構」シリーズでは、上杉謙信や写楽のように、肖像が残っておらず、
まったく顔の分かっていない人を多く描いています。
「在るもの」を描くことを超えて、「描きたいもの」を描きたかったのでしょう。
展覧会には1982年の「北斎の娘おゑい」が出品されています。
長煙管を手に、吊り上がった目でにらみつけている姿は、勝気な性格だったという
おゑいをよく表しています。
片岡球子特有の、力のこもった描き方ですが、しっかり浮世絵の伝統を継いでいます。
顔のデフォルメは、もともと浮世絵の得意技です。
独特といわれる片岡球子の画風も、さまざまなことを学び続けた結果として
生まれてきたものだと思います。
chariot
近代日本画の名品を数多く集めている山種美術館では「百寿を超えて」という題で、
奥村土牛、小倉遊亀、片岡球子の三人展を11月3日(月・祝)まで開いています。
みな、百歳を超えても創作活動を続けた近代日本画家です。
片岡球子(1905〜2008、103歳没)は6点出品されています。
片岡球子は力強い大胆な描き振りによる富士山や「面構(つらがまえ)」
シリーズで有名です。
毎年秋に東京都美術館で開かれる院展では、その作品は遠くからでも、
すぐそれと分かりました。
歴史上の人物を大画面いっぱいに太い線と強烈な色彩で自由に描き切っていて、
会場でもひときわ目立っていました。
富士山の絵も、色を惜しげもなく使って、ぐいぐい描くといった風で、見ていて
楽しくなります。
経歴によれば、若いころの片岡球子は院展になかなか入選できず、
一時は「落選の神様」とあだ名を付けられたそうです。
その頃の作品を見たことがないので、どんな作風だったのかよく分かりませんが、
自分がどんな絵を描くべきか模索していたのかもしれません。
また、自分の画風が出来てくると、これだけ個性があるだけに、理解されるのに
時間が掛かったようです。
日本画は伝統の上に立っているので、まったく新しいことを始めると
風当たりも強いでしょう。
富士山のシリーズを見ていると、その柄の大きさ、大胆さに感心しますが、
これは日本画なのか、油絵で描いてもいいのではないか、という気もします。
「面構」シリーズは1966年の「足利尊氏、義満、義政」から始まっています。
足利尊氏を最初に選んだのは、京都等持院に置かれている木像の顔に
惹かれたからだということです。
木像から想像すると、足利尊氏は垂れ目で鼻が大きく、愛嬌のある顔だったようで、
「面構」にもその特徴がよく表れています。
「面構」の最初に、足利尊氏を選ぶという目の付け所が面白いと思います。
「面構」シリーズでは、上杉謙信や写楽のように、肖像が残っておらず、
まったく顔の分かっていない人を多く描いています。
「在るもの」を描くことを超えて、「描きたいもの」を描きたかったのでしょう。
展覧会には1982年の「北斎の娘おゑい」が出品されています。
長煙管を手に、吊り上がった目でにらみつけている姿は、勝気な性格だったという
おゑいをよく表しています。
片岡球子特有の、力のこもった描き方ですが、しっかり浮世絵の伝統を継いでいます。
顔のデフォルメは、もともと浮世絵の得意技です。
独特といわれる片岡球子の画風も、さまざまなことを学び続けた結果として
生まれてきたものだと思います。
半蔵門・九段下
近代日本画の名品を数多く集めている山種美術館では「百寿を超えて」という題で、
奥村土牛、小倉遊亀、片岡球子の三人展を11月3日(月・祝)まで開いています。
みな、百歳を超えても創作活動を続けた近代日本画家です。
小倉遊亀(1895〜2000、105歳没)は5点出品されています。
小倉遊亀は花や人物をよく描き、感覚がモダンで、色彩も線も美しく、
華のある画家です。
30歳のころに院展に初入選し、数年後に女性として初めて日本美術院の
同人になっていますから、若いころから注目されていたことが分かります。
奥村土牛は、ゆっくり着実な歩みということで、牛というイメージが合いますが、
小倉遊亀は亀というよりは、長距離を走りぬいた兎といった感じです。
1971年の「舞う(舞妓)」、1972年の「舞う(芸者)」が出品されています。
大きな画面の一対の連作で、金色の地に、舞っている舞妓と芸者が一人づつ
描かれています。
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」と同じ趣向です。
「舞う(舞妓)」は振袖姿の若い舞妓が金の扇をかざして、誇らしげに振り返った
瞬間をとらえています。
画面左上の扇から右下に流れる構図ですが、扇を持つ手の袖が外に広がって、
全体に三角形で安定した形になっています。
頭の上に扇をかざした姿を画面に収めるためか、舞妓の身長を低く描いています。
赤紫色の振袖の柄は梅、牡丹、紅葉、菊、南天など四季の草花をあしらって
賑やかです。
赤い帯は菊の模様で、襦袢の赤、足袋の白も見えます。
髪飾りも多く、金、銀、赤をあしらっています。
顔は日本画独特の、すっきりと美しい線描で表しています。
色彩を多く使い、若々しく、華やかな姿を生き生きと描いた作品です。
「舞う(芸者)」では芸者が扇を帯に差し、右袖を抱え、左手を髪に添え、
首を少しかしげて振り返っています。
裾が広がって、やはり三角形の安定した構図です。
芸者の着物はあっさりした竹と流水の柄の黒留袖、白の帯も竹の柄です。
襟元の襦袢と帯の端に見える赤色がアクセントになっています。
眉のあたりの影、口許の形で舞妓との年齢の違いや、心意気を表し、
全体として色数を少なく、すっきりと描くことで芸者の粋な姿を描き出しています。
二点それぞれに見応えのある作品ですが、並べることで、舞妓と芸者を描き分ける、
作者の工夫を観ることができます。
それにしても、70歳代半ばでの、この感覚の若さ、みずみずしさはさすがです。
天分だけではない、日々の積み重ねがあっての作品だと思います。
chariot
近代日本画の名品を数多く集めている山種美術館では「百寿を超えて」という題で、
奥村土牛、小倉遊亀、片岡球子の三人展を11月3日(月・祝)まで開いています。
みな、百歳を超えても創作活動を続けた近代日本画家です。
小倉遊亀(1895〜2000、105歳没)は5点出品されています。
小倉遊亀は花や人物をよく描き、感覚がモダンで、色彩も線も美しく、
華のある画家です。
30歳のころに院展に初入選し、数年後に女性として初めて日本美術院の
同人になっていますから、若いころから注目されていたことが分かります。
奥村土牛は、ゆっくり着実な歩みということで、牛というイメージが合いますが、
小倉遊亀は亀というよりは、長距離を走りぬいた兎といった感じです。
1971年の「舞う(舞妓)」、1972年の「舞う(芸者)」が出品されています。
大きな画面の一対の連作で、金色の地に、舞っている舞妓と芸者が一人づつ
描かれています。
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」と同じ趣向です。
「舞う(舞妓)」は振袖姿の若い舞妓が金の扇をかざして、誇らしげに振り返った
瞬間をとらえています。
画面左上の扇から右下に流れる構図ですが、扇を持つ手の袖が外に広がって、
全体に三角形で安定した形になっています。
頭の上に扇をかざした姿を画面に収めるためか、舞妓の身長を低く描いています。
赤紫色の振袖の柄は梅、牡丹、紅葉、菊、南天など四季の草花をあしらって
賑やかです。
赤い帯は菊の模様で、襦袢の赤、足袋の白も見えます。
髪飾りも多く、金、銀、赤をあしらっています。
顔は日本画独特の、すっきりと美しい線描で表しています。
色彩を多く使い、若々しく、華やかな姿を生き生きと描いた作品です。
「舞う(芸者)」では芸者が扇を帯に差し、右袖を抱え、左手を髪に添え、
首を少しかしげて振り返っています。
裾が広がって、やはり三角形の安定した構図です。
芸者の着物はあっさりした竹と流水の柄の黒留袖、白の帯も竹の柄です。
襟元の襦袢と帯の端に見える赤色がアクセントになっています。
眉のあたりの影、口許の形で舞妓との年齢の違いや、心意気を表し、
全体として色数を少なく、すっきりと描くことで芸者の粋な姿を描き出しています。
二点それぞれに見応えのある作品ですが、並べることで、舞妓と芸者を描き分ける、
作者の工夫を観ることができます。
それにしても、70歳代半ばでの、この感覚の若さ、みずみずしさはさすがです。
天分だけではない、日々の積み重ねがあっての作品だと思います。
半蔵門・九段下
近代日本画の名品を数多く集めている山種美術館では「百寿を超えて」という題で、
奥村土牛、小倉遊亀、片岡球子の三人展を11月3日(月・祝)まで開いています。
みな、百歳を超えても創作活動を続けた近代日本画家です。
暑さの残る日でしたが、地下鉄九段下から九段坂を上がって行きました。
千鳥ケ淵の眺めです。

千鳥ケ淵の桜並木です。
花の季節はとてもにぎわいます。


美術館前です。
ちょうど、彼岸花が咲いていました。


三人の中で、奥村土牛(1889〜1990、101歳没)は一番多く、
37点出品されています。
奥村土牛の作品は色数を抑えているので、見た目には地味ですが、
堅牢で深みのある色です。
塗りを何度も何度も重ねることで、この効果を出しているようです。
1959年作の「鳴門」は、大きな画面いっぱいに白みがかった緑色と
白色だけで海と渦潮を描いています。
ほとんど一色なのに、画面に厚みがあり、渦潮の量感が伝わります。
解説によると、連絡船に乗っていて、たまたま渦潮を見た奥村土牛は
奥さんに帯を掴んでもらって、渦潮を覗き込んでスケッチしたそうです。
奥村土牛の写生への姿勢は徹底的で、姫路城の城門を描いた1967年の「門」では
80歳に近い高齢で夏の炎天下に何時間も掛けてスケッチしたとのことです。
この作品には奥村土牛のもう一つの特徴の、形の強調が表れています。
大きく開かれた門扉、門の向こうの視界をふさぐ白壁、その壁に一つ開いている
鉄砲狭間と白壁の屋根の上の空間と、四角い図形が奥へと並び、絵に奥行を
見せています。
城の持つ物語性や情緒に頼らず、あくまで面の作る空間構成にこだわっています。
この作風は1955年の、同じ姫路城を描いた「城」に始まるといいます。
「城」は天守閣を下から見上げた構図ですが、画面の下側に大きく白壁の面を取り、
その上に屋根の構造物の重なりを黒く太い線で積み上げて描いています。
この、対象を図形として捉え、画面を大胆に分割するという作風を確立したのが、
普通の人間なら引退している60歳過ぎてから、という気の長さにも驚きます。
セザンヌの影響を受けたということですが、たしかに華やかさを求めない、
量感のある、がっちりした構成はセザンヌに通じます。
形を強調した作品としては1970年の「大和路」もそうです。
右手前から左奥に向けて、民家の大屋根、軒、塀の四角い図形が
並んでいます。
特に右側の屋根の土色の大きな長方形が印象的です。
会場には「城」「門」「大和路」の大作3点が並んで展示されていて、
その迫力に圧倒されます。
桜を描いた1972年の「醍醐」も奥村土牛の特徴がよく表れています。
縦長の画面の真中に桜の巨木の太い幹が直立し、上半分を満開の桜が
面となって埋めるという、大胆な構図です。
画面右側に立つ支柱、中心の桜の幹、奥の土塀、更に左奥の土塀と、
右手前から左奥へと並びます。
奥村土牛は、「城」以前の「軍鶏」(1950年)、「聖牛」(1950年)を見ても、
すでに堂々として立派な画家だということが分かりますが、
独自の世界がはっきり見えるのは、やはり「城」以降といえます。
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近代日本画の名品を数多く集めている山種美術館では「百寿を超えて」という題で、
奥村土牛、小倉遊亀、片岡球子の三人展を11月3日(月・祝)まで開いています。
みな、百歳を超えても創作活動を続けた近代日本画家です。
暑さの残る日でしたが、地下鉄九段下から九段坂を上がって行きました。
千鳥ケ淵の眺めです。

千鳥ケ淵の桜並木です。
花の季節はとてもにぎわいます。


美術館前です。
ちょうど、彼岸花が咲いていました。


三人の中で、奥村土牛(1889〜1990、101歳没)は一番多く、
37点出品されています。
奥村土牛の作品は色数を抑えているので、見た目には地味ですが、
堅牢で深みのある色です。
塗りを何度も何度も重ねることで、この効果を出しているようです。
1959年作の「鳴門」は、大きな画面いっぱいに白みがかった緑色と
白色だけで海と渦潮を描いています。
ほとんど一色なのに、画面に厚みがあり、渦潮の量感が伝わります。
解説によると、連絡船に乗っていて、たまたま渦潮を見た奥村土牛は
奥さんに帯を掴んでもらって、渦潮を覗き込んでスケッチしたそうです。
奥村土牛の写生への姿勢は徹底的で、姫路城の城門を描いた1967年の「門」では
80歳に近い高齢で夏の炎天下に何時間も掛けてスケッチしたとのことです。
この作品には奥村土牛のもう一つの特徴の、形の強調が表れています。
大きく開かれた門扉、門の向こうの視界をふさぐ白壁、その壁に一つ開いている
鉄砲狭間と白壁の屋根の上の空間と、四角い図形が奥へと並び、絵に奥行を
見せています。
城の持つ物語性や情緒に頼らず、あくまで面の作る空間構成にこだわっています。
この作風は1955年の、同じ姫路城を描いた「城」に始まるといいます。
「城」は天守閣を下から見上げた構図ですが、画面の下側に大きく白壁の面を取り、
その上に屋根の構造物の重なりを黒く太い線で積み上げて描いています。
この、対象を図形として捉え、画面を大胆に分割するという作風を確立したのが、
普通の人間なら引退している60歳過ぎてから、という気の長さにも驚きます。
セザンヌの影響を受けたということですが、たしかに華やかさを求めない、
量感のある、がっちりした構成はセザンヌに通じます。
形を強調した作品としては1970年の「大和路」もそうです。
右手前から左奥に向けて、民家の大屋根、軒、塀の四角い図形が
並んでいます。
特に右側の屋根の土色の大きな長方形が印象的です。
会場には「城」「門」「大和路」の大作3点が並んで展示されていて、
その迫力に圧倒されます。
桜を描いた1972年の「醍醐」も奥村土牛の特徴がよく表れています。
縦長の画面の真中に桜の巨木の太い幹が直立し、上半分を満開の桜が
面となって埋めるという、大胆な構図です。
画面右側に立つ支柱、中心の桜の幹、奥の土塀、更に左奥の土塀と、
右手前から左奥へと並びます。
奥村土牛は、「城」以前の「軍鶏」(1950年)、「聖牛」(1950年)を見ても、
すでに堂々として立派な画家だということが分かりますが、
独自の世界がはっきり見えるのは、やはり「城」以降といえます。
日比谷 有楽町
出光美術館では9月6日から10月26日まで、所蔵品による、「近代日本の巨匠たち」
というテーマの展覧会が開かれています。
出光美術館は小杉放菴(こすぎほうあん)の作品を多く所蔵しており、
今回も何点か展示されています。
小杉放菴は明治から昭和に掛けての洋画家、のちに水墨画家で、
洋画家時代は未醒の号で有名です。
放菴も、はじめは放庵と書いていました。
飄々とした画風が特徴で、特に水墨画にそれが表れています。
子供たちに混じって、無心で楽しげに遊ぶ良寛さんの絵でよく知られています。
安田鞍彦の描く良寛が、膝の上に紅い手まりを載せながら、墨染めの衣姿で、
厳しい表情で端座しているのと対照的です。
これは二人の個性のそれぞれの表れでしょう。
今回の展示では1931年作の「さんたくろす」に惹かれました。
サンタクロースが雪の森を歩いているのですが、顔は中国の仙人のようで、
腰は曲がり、長い杖を突いています。
なんともユーモラスな絵です。
しかし、丘になった森のはずれに立つ人物と、ふもとに人家がある構図は、
ブリューゲルの有名な「雪中の狩人」を左右逆にしたものと同じです。
洋画と水墨画を自由に溶け合わせ、題も「さんたくろす」と、
ひら仮名で付けるという自在さは小杉放菴独特のものですが、
日本絵画の近代化にはこんな方向もあった訳です。
同じ時期には佐伯祐三が西洋と日本の間で苦悩しながら、
深刻な雰囲気の「踏切」を描いていたことを併せて思います。
chariot
出光美術館では9月6日から10月26日まで、所蔵品による、「近代日本の巨匠たち」
というテーマの展覧会が開かれています。
出光美術館は小杉放菴(こすぎほうあん)の作品を多く所蔵しており、
今回も何点か展示されています。
小杉放菴は明治から昭和に掛けての洋画家、のちに水墨画家で、
洋画家時代は未醒の号で有名です。
放菴も、はじめは放庵と書いていました。
飄々とした画風が特徴で、特に水墨画にそれが表れています。
子供たちに混じって、無心で楽しげに遊ぶ良寛さんの絵でよく知られています。
安田鞍彦の描く良寛が、膝の上に紅い手まりを載せながら、墨染めの衣姿で、
厳しい表情で端座しているのと対照的です。
これは二人の個性のそれぞれの表れでしょう。
今回の展示では1931年作の「さんたくろす」に惹かれました。
サンタクロースが雪の森を歩いているのですが、顔は中国の仙人のようで、
腰は曲がり、長い杖を突いています。
なんともユーモラスな絵です。
しかし、丘になった森のはずれに立つ人物と、ふもとに人家がある構図は、
ブリューゲルの有名な「雪中の狩人」を左右逆にしたものと同じです。
洋画と水墨画を自由に溶け合わせ、題も「さんたくろす」と、
ひら仮名で付けるという自在さは小杉放菴独特のものですが、
日本絵画の近代化にはこんな方向もあった訳です。
同じ時期には佐伯祐三が西洋と日本の間で苦悩しながら、
深刻な雰囲気の「踏切」を描いていたことを併せて思います。













