「花燃ゆ」展 江戸東京博物館
両国
chariot

両国の江戸東京博物館では2015年NHK大河ドラマ特別展、「花燃ゆ」展が
開かれています。
会期は7月20日(月・祝)までです。
6月28日までの前期と6月30日までの後期で、一部展示替えがあります。

花001


吉田松陰の妹、杉文(後の楫取美和子)の生涯とともに、幕末維新期の長州藩士の活動を示す
資料が展示されています。

「費用録」 嘉永4年3-8月 山口県文書館
前期の展示です。
吉田松陰が旅行中に付けていた小遣い帳です。
以前読んだ、山口県教育委員会編の「吉田松陰全集」にも小遣い帳の内容が載っていました。
「お入れ」(見世物小屋)に入ったり、「追々つかい尽くす」と書いてあったりで、好奇心の旺盛な
青年の面影が浮かびます。

「吉田松陰全集」には、耳の聴こえない弟の敏三郎を気遣って神社に納めた願文もありました。
とても弟思いの、細やかな心情が綴られています。

「佐久間象山送別詩」 嘉永6年9月 松陰神社(山口県)
プチャーチンが乗って長崎に来航していたロシア船に乗り込んで密航しようとした松陰に、
師の佐久間象山が贈った激励の詩です。
「一見は百聞を超ゆ」の言葉があり、西洋文明への強い関心を示しています。
この意識が明治維新を起こした原動力になっています。

「高杉晋作等血判状 吉田松陰宛」 安政5年12月11日 宮内庁書陵部
吉田松陰は、幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことに怒り、老中首座の
間部詮勝の殺害を計画します。
師の過激化を心配した高弟たちが血判を押して諌めた手紙で、久坂玄瑞、高杉晋作、
飯田正伯、尾寺新之丞、中谷正亮が名を連ねています。
松陰はこれを読んで弟子たちが不甲斐無いとして激昂し、絶縁しています。
この5人のうち、生きて明治の世を迎えることの出来たのは尾寺新之丞だけです。

「吉田松陰絶筆」 安政6年10月27日 山口県文書館
花005

前期の展示です。
安政の大獄によって江戸に護送され、伝馬町牢屋敷で斬首された吉田松陰が処刑場への
呼び出しを受けて書いた辞世の歌です。

 此程に思定めし出立ハけふきくこそ嬉しかりける

4句目が字足らずですが、直す時間が無かったためか、横に点を一つ打ってあります。

「涙袖帖 久坂玄瑞書簡 文宛」 文久3年8月29日、元治元年1月19日
花004

後期の展示で、前期は複製の展示です。
久坂玄瑞が妻の文に宛てて送った手紙を巻物に仕立ててあります。
久坂玄瑞は元治元年7月19日の禁門の変に敗れて自刃しており、1月19日付の手紙が
最後のものとなっています。

「馬関戦争図」 下関市立長府博物館 元治元年頃
長州藩が攘夷を実行し、外国船を砲撃したため、イギリス・フランス・オランダの艦隊が
下関の砲台を砲撃、占領した、四国艦隊下関砲撃事件が描かれています。
2列縦陣で進む艦隊に対し、鎧兜姿の長州藩士たちが盛んに砲撃を加え、上陸してきた敵兵の
首を取っている者もいます。
実際には、長州藩の主力は京に上って禁門の変を起こしていて、地元におらず、旧式砲では
射程が短いため歯が立たず、砲台は占領され、大砲は運び去れるという惨敗でした。
これにより長州藩は攘夷の非現実性を悟ることになります。
描いたのは、自身も戦いに参加した藤島常興で、金工師の家に生まれ、大砲の鋳造技術を学んで、
後に長府藩士として召し抱えられ、後には測量器や羅針盤の製作を手掛けています。

「荻野流壱貫目青銅砲」 天保15年 アンバリッド軍事博物館(下関市寄託)
長方形の木の台車に載った、大砲というより大筒で、砲身には雲流文が彫られています。
フランス軍の戦利品として、パリのアンバリッド軍事博物館の所有となっています。

「木戸孝允書簡 坂本龍馬宛(坂本龍馬裏書)」 慶応2年1月23日、2月5日 宮内庁書陵部
花003

京都の小松帯刀邸において薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀と長州の木戸孝允の間で結ばれた
薩長同盟の内容を木戸孝允がまとめ、会談を仲介した坂本龍馬に確認したもので、内容に
間違いが無い旨を坂本龍馬が手紙の裏に朱筆で書いています。
禁門の変以来、敵対関係にあった、薩摩と長州が同盟したことにより、長州は政治勢力として
復帰を果たすことになります。

「幕府追討密勅」 慶応3年10月14日 毛利博物館 重要文化財
前期の展示です。
長州藩主毛利敬親・定広父子に出された、いわゆる「討幕の密勅」です。
毛利氏は大江広元の子孫なので、宛名も参議大江敬親となっています。
この勅書には明治天皇の署名が無く、中山忠能ら3名の署名がありますが、花押が無いなど
異常な点が多く、偽勅ではないかとも言われています。

「大和錦切火打袋」 明治16年11月13日
鳥羽伏見の戦いで新政府軍が掲げた錦旗は関係者に分与されています。
杉文の2番目の夫である楫取素彦がこれを火打石を入れる袋に仕立て直したものです。

2013年に同じ江戸東京博物館で開かれたNHK大河ドラマ特別展、「八重の桜」展では、
会津藩の降伏式に使われ、会津藩士たちが屈辱の印として切り分けて持ち帰った
緋毛氈の切れ端(泣血氈)が展示されていました。

「八重の桜」展には、京都守護職として京都から長州藩を中心とする過激な尊皇攘夷派を追放
(八月十八日の政変)した松平容保に感謝して、孝明天皇が贈った自筆の感謝状と自製の和歌も
展示されていました。
松平容保は生涯、この宸翰と歌を錦の袋に入れ、肌身離さず持っていたということです。

「八重の桜」展の記事です。


正義と不義、官と賊が瞬く間に入れ替わった苛烈な動乱の時代の資料を観ていると、
重い感慨が湧いてきます。

展覧会のHPです。

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【2015/06/20 19:18】 美術館・博物館 | トラックバック(0) | コメント(0) |
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