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「西郷どん展」 東京藝術大学大学美術館
上野
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上野の東京藝術大学大学美術館では「西郷どん展」が開かれています。
会期は7月16日(月・祝)までです。

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NHK大河ドラマ、「「西郷どん」に合わせての特別展で、西郷隆盛の事績に沿って、
幕末維新期の資料、約280点が展示されています。

プロローグ 西郷と薩摩

「西郷隆盛肖像画」 石川静正 大正時代初 個人蔵
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会場の最初に展示されています。
元庄内藩士の石川静正(1848-1925)が描いた肖像画で、石川静正は西郷に2度会っており、
西郷の風貌をよく伝えているとされています。
眉は太く、大きな目鼻の南方系の顔立ちです。
庄内藩は戊辰戦争では敢闘し、会津潘が降伏した後に初めて新政府に恭順していますが、
西郷の好意により戦後処理でも優遇され、多くの藩士が西郷を慕うことになります。


第一章 船出

島津斉彬にまつわる品などの展示です。

「桜島之図掛幅」 島津斉彬筆 江戸時代末 個人蔵 玉里島津家資料
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大正3年(1914)の噴火で大隅半島と陸続きになる前の姿です。

天璋院篤姫が日用に使っていた品々も展示されています。
篤姫は徳川13代将軍家定の未亡人だったので、東海道を東上してくる新政府軍の
参謀だった西郷隆盛に徳川慶喜の助命を願う嘆願書を送っています。


第二章 流転

流人時代の資料です。

「アームストロング砲の砲弾」  19世紀 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵 
文久3年(1863)の薩英戦争で、イギリス軍艦より打ち込まれた砲弾です。
アームストロング砲は後装式で砲身に飛距離を延ばすライフルが刻んであります。
上野戦争では佐賀藩のアームストロング砲が威力を発揮し、彰義隊の壊滅を早めています。

この薩英戦争や尊王攘夷派の公卿の七卿落ちなど、政情が急変したため、
島津久光によって沖永良部島に流されていた西郷はその手腕を期待されて、
赦免召還されています。
もっとも、西郷を嫌っていた久光は赦免を許可する時も腹立ちのあまり銀煙管の
吸い口を強く噛んで、歯の跡を付けてしまったそうです。


第三章 飛翔

禁門の変から戊辰戦争にかけて、西郷の活躍が始まっています。

「討幕の密勅」 慶応3年(1867)10月13日付 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
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6月17日までの展示です。
慶應3年(1867)に薩摩藩と長州藩に出されており、こちらは薩摩藩に出されたもので、
島津久光と12代藩主島津茂久(後の忠義)宛になっています。
本文の後ろから3行目に「殄戮賊臣慶喜」とあります。
殄戮(てんりく)とは殺し尽くすという意味で、討幕の指示に当たります。

「江戸開城談判下図」 結城素明 大正時代末-昭和時代初 明治神宮蔵
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慶応4年3月14日に田町の薩摩藩邸で行なわれた、新政府軍の西郷隆盛と
旧幕府の勝海舟の会見の場面です。
この会見により、翌日に予定されていた江戸城総攻撃は回避され、江戸城の
無血開城が決まっています。
この絵では、客である勝は座敷の上座に座り、刀を自分の左に置いています。
通常は刀を右に置いて、抜き打ちする意思の無いことを示すのが礼儀です。

彰義隊の立てこもる上野の山を新政府軍が攻撃した時、東京藝術大学の辺りは
長州軍などが進撃しています。


第四章 英雄

明治政府の発足から西南戦争までの西郷です。

西郷の軍服も展示されていて、かなりの長身で、胴回りも大きかったことが分かります。

「西郷隆盛所用 刀装具(縁頭、目貫)」 筑山軒元茂作 文政3年(1820)個人蔵
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犬好きだった西郷が、優秀な猟犬だった「雪」を借りる代わりに渡した品です。
陸軍大将就任時の明治天皇からの下賜品とされ、梅を愛で、鶴を飼っていたという、
宋代の詩人、林和靖(967 - 1028)の姿が彫られています。
一生、官に仕えようとしなかった林和靖と、政治的な野心の無かった西郷には
似たところがあります。
それにしても、天皇からの下賜品を犬の借り賃にしてしまうことには驚きます。

「西郷札」 明治10年(1877)6月 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵
西郷軍が戦費調達のため発行した紙幣で、紙を布で挟んであります。
当初から信用力は薄く、西郷軍の敗北により、価値を失っています。

「博愛社救護所」 日本赤十字社
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日本赤十字社は1877年(明治10年)の西南戦争の時に、佐野常民と旧大名の
大給恒(おぎゅうゆずる)らによって熊本に設立された博愛社を前身としています。
西南戦争では佐賀で医師や看護人を雇って各地で負傷者の救護に当たっています。
民家を使った救護所に負傷兵を運び込んでいて、まだ髷を結っている人も見えます。
この頃の博愛社のマークは日の丸の下に赤の一文字です。

「城山本営からの檄文」 明治10年(1877)9月22日付 
 鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵

鹿児島の城山に追い詰められた西郷軍の本営から出された、最後の檄文です。
後世に恥辱を残さぬよう、城を枕に決戦すべき、と書かれています。
この翌々日、西郷軍は総攻撃を行ない、全滅しています。

「敬天愛人」 西郷隆盛書 明治7-8年(1874-75) 鹿児島市立美術館蔵
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6月19日からの展示です。
西郷の思想を表した、有名な言葉です。

明治維新の大きな難関だった明治4年(1871)の廃藩置県では、西郷は薩摩・長州・土佐より
集めた御親兵5000名を率いて、諸潘の抵抗を抑え、改革を成功させています。
そして、西南戦争では西郷軍、政府軍それぞれ6000人以上の戦死者を出したことで、
西郷は身をもって士族を滅ぼし、明治維新を完成させたことになります。


エピローグ 人々の中の西郷

西郷隆盛は西南戦争を起こしたため、逆賊とされましたが、明治22年(1889)の
大日本帝国憲法の発布に伴う大赦により、汚名が除かれたことを機に、
銅像の建設計画が始まっています。

先日、三の丸尚蔵館の「明治の御慶事」展で展示されていた、大日本帝国憲法の
原本には黒田清隆、大山巌、西郷従道など薩摩閥の大臣たちの署名が並んでいました。

銅像は明治31年(1898)に完成し、上野戦争で西郷の率いる薩摩軍の攻め上がった
山王台に建っています。
制作は東京美術学校(現在の東京藝術大学)教授だった高村光雲のチームが
行ないましたが、西郷は1枚も写真を残していないので顔の造作に苦労した
ということで、顔の部分がまだ造られていない木型の写真も展示されています。
高村光雲自身も若い頃、上野で戦争が始ったことを上野山下の職人仲間に
知らせようとして、銃弾の飛び交っていることも知らずに、その下を駆け回っています。

鋳造の責任者は東京美術学校の教師(後に教授)の岡崎雪声で、岡崎は楠木正成像、
日本橋欄干彫刻の鋳造も行なっています。

また、制作に当たっては、西南戦争で常に西郷に付き従い、城山では西郷の助命嘆願の
ため政府軍に派遣されたこともある河野主一郎(1847-1922)が何度も現場に足を運んで
助言しています。

「上野山王台西郷隆盛銅像」 歌川延一画 明治32年(1899) 江戸東京博物館蔵
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6月19日からの展示です。

浴衣を着て犬を連れた西郷さんの銅像は、現在も東京を代表するスポットの一つに
なっています。
故郷に退隠して、愛犬のツンを連れて兎狩りをしていた姿を表しています。

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帯に提げているのは罠に使う藁です。
脇差の鞘が帯から抜けるのを防ぐ返角(かえりづの)も忠実に再現されています。

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銘板には、2万5千人以上の寄付を集めて制作されたとあります。

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この像により、西郷隆盛は「西郷どん」から、「上野の西郷さん」になって、長く人々の記憶に
残ることになりました。

展覧会のHPです。

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【2018/05/29 19:48】 美術館・博物館 | トラックバック(0) | コメント(0) |
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